鶴来町三宮の五輪塔と地蔵尊立像

三の宮五輪塔 白山比咩神社
三の宮五輪塔

三宮墓地は白山比咩神社南参道駐車場の上

白山比咩神社南参道の鳥居を出て、往来を渡り南参道駐車場へ進む道をさらに上へと登ってゆくと三宮墓地が見えてきます。
距離にして150mほどだと思います。

白い案内板が見えてきました。


三宮の五輪塔

案内板には三宮の五輪塔と書かれていました。


白山市指定有形文化財考古資料

三宮の五輪塔

所在地 白山市三宮町共同墓地

所有・管理者 三宮町町内会

時代 室町時代~戦国時代

 三宮町の共同墓地には、石造の五輪塔をはじめ「延命地蔵」と呼ばれている石造地蔵菩薩立像や江戸時代中期の白山本宮惣長吏(そうちょうり)等の墓標等の石造物があります。

 五輪塔は、平安時代末頃から中世にかけて貴族や武士・僧等の供養塔・墓として造られました。この墓地にあるものは、その特徴から十六世紀前半頃のものが主体をしめております。その形は、上から宝珠形の空輪、半月型の風輪、三角形の火輪、円形の水輪、方形の地輪から成り、五輪で宇宙(あらゆる世界)を表しています。この形は、インドが発祥といわれています。この共同墓地内で将棋の駒型の石造板に五輪塔が印刻されたものがあります。水輪部分には、大日如来の字を表す「バン」が印刻されています。越中や能登を中心に所在が認められている形態のもので加賀地方では珍しい形です。

このあたりの周辺には、中世「レンゲジ」や「波着寺」「白光院」など寺や僧院を示す字が多く残っていることから、ここにある五輪塔は中世の寺社僧の墓標と考えられています。

昭和五十二年十二月二十八日指定

このように記されていました。

とりあえずChatGPTに聞いてみる

鶴来町三宮の五輪塔についてチャッピー先生に聞いてみました。
この場所に関してはWebを検索してもほとんど情報が出てきません^^;

鶴来町の三宮の五輪塔は、現在の白山市三宮町に残る中世石造物で、白山信仰と鶴来地域の中世史を考えるうえで興味深い資料です。

1.文化財に指定されています

この五輪塔は、現在の**白山市指定有形文化財(考古資料)**です。

白山市の文化財一覧では、

  • 名称:三宮の五輪塔
  • 所在地:三宮町
  • 指定:昭和52年(1977)12月28日
  • 所有者:三宮町区

とされています。

現地の位置情報では、三宮町119-2付近に「三宮の五輪塔」が登録されています。

三宮の五輪塔

5.0•史跡

2.「三宮」という場所が重要です

三宮町は、現在の白山比咩神社が鎮座する地域です。

白山比咩神社は、古代から中世にかけて形成された白山信仰の中心地の一つです。

したがって、この周辺に五輪塔が残っていることは偶然とは考えにくく、中世の三宮周辺に寺院・僧侶・山岳修行者・有力者などの活動があったことを示す石造物として見ることができます。

3.五輪塔とは何か

五輪塔は、主として中世以降に造られた墓塔・供養塔です。

上から、

空輪 → 風輪 → 火輪 → 水輪 → 地輪

という五つの部分から構成されます。

これは仏教、とくに密教的な宇宙観を表したものです。

部分意味
空輪空・宇宙
風輪風・運動
火輪火・生命力
水輪水・流動
地輪大地・物質

つまり五輪塔は、単なる墓石ではなく、人間の死後の世界と宇宙そのものを象徴する塔でもあります。

4.三宮周辺には「墓山遺跡」もあります

興味深いのは、三宮町には**「三宮墓山遺跡」**という中世の墓域・石塔関係の遺跡が知られていることです。

石川県埋蔵文化財センターの資料にも、鶴来地域の石造遺物として、

鶴来町 三宮墓山遺跡 ― 五輪塔

という記録があります。

つまり三宮の五輪塔は、単独で突然現れた石塔というより、三宮周辺に存在した中世の墓域・石塔文化の一端として考えるのが適切です。

5.白山信仰との関係

ここが特に重要です。

現在の三宮には神社としての白山比咩神社がありますが、中世の白山信仰は現在の神道だけで成り立っていたわけではありません。

神仏習合の時代には、

白山権現=仏・菩薩の現れ

という考え方が広く行われ、白山の山岳信仰と密教・修験道・寺院が密接に結びついていました。

そのため、現在は神社境内・神社周辺となっている場所に、かつての仏教信仰を示す五輪塔や石仏などが残ることがあります。

これは、明治初年の神仏分離以前の三宮・白山信仰の姿を考える手掛かりになります。

結論からいうと、現在「三宮の五輪塔」として白山市指定文化財になっている石塔について、「○○という人物の墓」と断定できる一次資料は確認できませんでした。
ただし、調査資料から見ると、白山比咩神社(中世の白山本宮)の寺務を担った僧侶・長吏層の墓である可能性がかなり重要です。

6.重要な手掛かり

白山市の文化財資料では、「三宮の五輪塔」は三宮町区所有の文化財として昭和52年(1977)に指定されています。

さらに、石川県の発掘調査資料『鶴来町白山遺跡・白山町墳墓遺跡Ⅱ』には、三宮周辺の五輪塔についてかなり興味深い記述があります。

三宮墓地周辺には、白山宮の寺務を総理する「長吏」の墓が多いとされ、その中に**「澄舜(ちょうしゅん)」という人物の五輪塔**があったことが記されています。

そして別の資料では、

「文明十六年五月十五日澄雲」

と刻まれた五輪塔の地輪が石川郡三宮墓地にあったことが確認されています。周囲に白山長吏の墓が多いことから、澄雲も白山本宮の長吏に関係する人物ではないか、と推定されています。

ここで注意したい点

資料によって人物名の読み・表記に違いがあります。

  • 澄舜(ちょうしゅん)
  • 澄雲(ちょううん)

などの表記が見られます。

また、文明16年=1484年という年代は一致しますが、現在の「三宮の五輪塔」そのものに、この銘があるとまでは確認できません。

むしろ研究資料を見ると、三宮周辺には複数の五輪塔・墓地遺跡があり、それらが後に移動されたケースもあります。三宮墓山遺跡からも五輪塔が出土しています。


7.では、誰の墓なのか?

現時点で一番慎重な答えは、

「白山本宮に関係した中世の僧侶・長吏層の墓である可能性が高いが、三宮の五輪塔の被葬者を特定することはできない」

です。

特に注目されるのが**澄舜(または澄雲)**です。

もしこの五輪塔が文明16年(1484)の銘を持つ石塔と同一であれば、白山本宮の寺務を統括した長吏級の人物の墓という非常に重要な意味を持つことになります。

当時の白山比咩神社は、現在のような「神社」だけの姿ではありませんでした。

白山本宮

神社+寺院+僧侶組織

長吏が寺務を統括

その関係者の墓が三宮周辺に形成

という構造だったと考えられます。

そして三宮墓山遺跡から五輪塔が出ていることも、この地域が単なる集落の墓地ではなく、白山本宮を中心とした中世宗教勢力の墓域だった可能性を強く示します。

今回の質問はチャッピー先生に三宮の五輪塔について解説してくださいとのことで、このような回答になっています。

五輪塔と地蔵菩薩立像

この写真の左側が五輪塔、右側が地蔵菩薩立像です。

これが最初の案内板に解説されていた五輪塔だと思われます。
チャッピー先生の解説ではこれが誰の墓なのか特定できないという意味です。

小松天満宮のブログさまからの引用

小松天満宮のブログに以下のような記事を発見しました。

白山長吏家墓地を訪ねて

 当社に奉納収蔵されてきた古文書類は、長年にわたり故人となられた国文学研究資料館 棚町知弥氏とその後を継がれた筑波大学 綿抜豊昭氏により調査や目録作りや翻刻が続けられてきています。古文書を書かれた方々のお名前をみながら、お互いの関連や奉納の背景調査やゆかりの古文書やゆかりの地を訪ねることを社務所としては行ってまいりました。

 そうした古文書の一つに、「天神御連歌一代記」(寛政4年(1792)4月、能慮弟常丸写・1冊)があります。能慮とは、天明6年(1786)から文政4年(1821)の間、当社宮司を務めた梅林院五世能慮のことであり、能慮が伝えたことを書き記した『連歌之伝書』(金沢市立図書館蔵)があります。

他方、『白山比咩神社叢書』第2 「長吏日記」には、白山7社惣長吏 澄令の後を継いで白山7社惣長吏になったのが 澄固であること、澄固は小松梅林院四世由順の子であり、梅林院五世能慮の弟であると記載されている。澄固が継職した年が文政元年(1818)、逝去したのは弘化2年(1845) 67歳とありますから、逆算すると常丸が「天神御連歌一代記」を書き記したのは、およそ14歳頃となります。常丸が白山惣長吏家に養子にゆくにはそれなりの理由があるが、本ブログの終わりまでには明らかになるのでお待ちいただきたい。

 幕末までの藩政期、白山本宮(現在の白山比咩神社)を統括する長吏は、白山七社惣長吏を兼帯して、代々、「澄」の字を継いで世襲制で勤めていました。

 過日、白山比咩神社の神職さんに案内していただいて白山長吏家の墓地を訪れてきました。白山7社惣長吏を勤めた方といえば、かなりの数の方々がおられるのですが、文字がよめて現存する墓標は2基だけでした。

http://komatsu.bairin.sub.jp/?eid=249

没年が享保10年(1725)とよめますが、お名前の文字は「澄意」のようによめます。インターネット検索で白山7社惣長吏と検索して出てくる唯一の惣長吏が「澄意」で、この方は、越前藩と加賀藩で争った白山争議に関して、京都朝廷から白山山頂神祠再興の勅許を受けてきたことで、加賀藩五代藩主綱紀卿から褒美等を頂戴した惣長吏です。時は、寛文6年(1666)ですから、没年時のこの方の御年がわからないと、この方であるとは断定できません。

これに対してこちら墓石は、割れてひどい状態ですが、「澄盛、天明3年2月22日」とよめます。没年月日からも、白山惣長吏 澄盛の墓石であることがわかります。

さらに、、、。

 明治維新後の神仏分離時の混乱期に長吏家の関係のものはなくなり、この2基の墓石は後年再建されたもののようですが、長吏家の墓地のため、維持管理が難しく、この時期に調査さしていただいてよかったというのが感想です。

とも綴られていました。
該当ページはHTTPSではないため、現在Google検索してもヒットしないことが多いようです。

こちらの墓跡や五輪塔が神仏習合時代の白山宮の存在を知る上で、重要な資料となっていることは間違いなさそうです。

さらに三宮墓地に関して幾つかの写真を並べてで現状を報告しておきます。

こちらの墓標に関しては拡大してみると、、、、。

最後に大姉と刻まれていますので、女性の墓標であることは間違えないようですが、肝心の名前の部分が明らかに意図的に削り取られているのがわかります。

白山長吏家墓地の周辺の様子

三つの墓標の手前にはさらに古い時代の五輪塔や墓標の残骸のようなものが残されていました。


これらも白山宮や白山寺に纏わる人たちの墓標の残骸なのでしょうか?


かなり古い時代のもののように見えますね。


あえて撤去しないで残しているようです。


梵字のようなものが刻まれているように見えます。


こちらは新しく建てなおした墓標の傍に古い時代の墓標が並べてあります。
新設したのに撤去できない深い事情があるように感じられました。


この一角もとても古い時代のものがそのまま取り残されているようです。
鶴来地区には白山信仰以外にも、このような昔の五輪塔が取り残されている場所がいくつか残されています。

最初のChatGPTの解説のところで端折ってしまった部分ですが、鶴来地区の五輪塔ということで掲載しておきます。
場所は、白山比咩神社のちょうど真下にあたるところで、表参道の手水舎の右手の細道を辿ってゆくと行き着きます。
当初白山信仰とゆかりのある場所なのかと思いましたが、こちらは一向一揆との関わりが深い場所のようです。

鶴来の五輪塔は「一向一揆」とも関係する

鶴来地域には、五輪塔が非常に多く残っています。

たとえば白山町の浄養寺周辺からは、文明年間(15世紀後半)の紀年銘を持つ五輪塔が複数確認されています。

具体的には、

  • 文明2年(1470)
  • 文明3年(1471)
  • 文明16年(1484)
  • 延徳3年(1491)

などの銘を持つ地輪が確認されています。

これは、15世紀後半の鶴来地域で五輪塔による墓塔・供養塔の文化が盛んだったことを示しています。

そして、この時期の鶴来は、白山信仰だけでなく本願寺教団・一向一揆の勢力が展開した地域でもあります。

したがって三宮の五輪塔も、

白山信仰 → 中世寺院・修験 → 在地の有力者 → 墓塔・供養塔

という、鶴来の複雑な宗教史の中で見ると非常に面白い存在です。

Google Map

コメント




過去30日間のTOP12

カテゴリー 一覧

月刊アーカイブ






白山百景の四柱

タイトルとURLをコピーしました