IR松任駅の裏手にある地蔵堂
白山寺本地堂が守郷白山神社に移設されたという話を前回しましたが、もう一つ白山寺地蔵院護摩堂の本尊地蔵菩薩半跏像が松任駅の裏手あたりに移設されたという話を聞いていってきました。
石川県指定文化財に指定されている銅造
白山市の公式HPには以下のように案内されています。
銅造 地蔵菩薩半跏像 附台座、光背(どうぞう じぞうぼさつはんかぞう つけたりだいざ、こうはい)
銘文によると康永元年(1342年)の作で、鎌倉時代の技法を踏襲した大変美しい仕上がりです。なお、本像は、明治維新以前は、白山本宮(現白山比咩神社)の白山寺にあった、地蔵院護摩堂の本尊であったと伝えられています。
銅造 地蔵菩薩半跏像 附台座、光背(どうぞう じぞうぼさつはんかぞう つけたりだいざ、こうはい)|白山市公式ホームページ白山市公式ホームページ
白山市教育委員会による解説

地蔵堂の前には白山市教育委員会による解説文が掲示されていました。



白山比咩神社の前身 自山寺にあったとされる地蔵院護摩堂本尊と伝えられ、明治初期、廃仏毀釈の際、取り除かれ東三番町に移されました。台座銘文から南北朝時代の康永元年(1342)の作とわかります。鑞型鋳造法が用いられ台座を含め8部分に別けて鋳造されています。鑞型原型は精緻な細工が可能であり、また原型の持つ柔和な風合いが移植されやすいので、本像も衣紋は写実的に表現された鎌倉時代の様式が踏襲されるとともに、やさしく穏やかな表情で、美しい肌合いの仕上がりとなっています。当初は、全体に鍍金がされた金銅仏であったと考えられています。台座は天和2年(1682)、加賀藩の鋳物師「平井但馬守家長」が補鋳したものです。
洗練された技巧が見られる優品で制作年代がわかる南北朝時代の基準作であるとともに神仏分離の歴史を伝える遺例として貴重です。
文化遺産オンラインによる解説
解説
本像は、白山比咩神社の前身である白山本宮所属の白山寺にあった、地蔵院護摩堂の本尊として祀られていたと伝えられる。白山寺は白山本宮の境内にあり、地蔵院護摩堂、本地堂などが立ち並んでいたが、明治時代初期の神仏分離の際に堂は失われ、本像も取り除かれて白山寺から遷座したといわれている。
形状は白毫相、首に三道をあらわし、耳朶は環状である。袈裟を纏い、左手に宝珠(後補)を捧げ、右手は一指、三指、四指を念じる。半跏踏下坐する。
構造は、頭躰部、両肩、両手、膝部、足先、台座の八部分による蠟型別鋳組合せである。表情はやさしく穏やかで、衣文は写実的で鎌倉時代の様式技法を踏襲し、蠟型鋳物独特の美しい肌合いの仕上がりである。全体に鍍金をした金銅仏であったと思われるが、現在は剥落しており鍍金はほとんど残っていない。
台座にある銘文によると、南北朝時代の康永元年(1342)に作成されたものであり、江戸時代の天和2年(1682)に加賀藩の鋳物師「平井但馬守家長」が台座部分を補鋳したことがわかる。
このように、銅造地蔵菩薩半跏像は、洗練された技巧が見られる優品であり、制作年が判明している南北朝時代の基準作として貴重な仏像である。また、白山における神仏分離の歴史を伝える遺例としても貴重であり、文化財的価値は高く、有形文化財に指定し、その保存を図ることが必要である。 銅造地蔵菩薩半跏像 附 台座、光背 文化遺産オンライン本像は、白山比咩神社の前身である白山本宮所属の白山寺にあった、地蔵院護摩堂の本尊として祀られていたと伝えられる。白山寺は白山本宮の境内にあり、地蔵院護摩堂、本地堂などが立ち並んでいたが、明治時代初期の神仏分離の際に堂は失われ、本像も取り…..
ChatGPTによる解説
さて、チャッピー先生はこの菩薩像についてどのように解説されるのでしょうか?
白山市松任地区の**「銅造 地蔵菩薩半跏像 附(つけたり)台座・光背」**は、単なる古い地蔵像ではなく、白山信仰と白山寺、そして明治の神仏分離を今に伝える非常に重要な仏像です。
1.基本情報
項目 内容 名称 銅造 地蔵菩薩半跏像 附 台座・光背 所在地 白山市東三番町21-5 所有者 東三番町町内会 材質 銅造 像高 57.0cm 制作年代 康永元年(1342年) 時代 南北朝時代 指定 石川県指定有形文化財 指定日 2011年(平成23年)12月20日 石川県指定文化財として登録されており、文化財としては**「1躯」**が指定されています。
2.最大の特徴は「白山寺から移された仏像」であること
この地蔵菩薩像が特に重要なのは、その来歴です。
現在の白山比咩神社の前身にあたる白山本宮には、かつて神社だけでなく、神仏習合の寺院である白山寺がありました。
その白山寺境内には、
- 地蔵院護摩堂
- 本地堂
- その他の仏堂
などが建ち並んでいました。
そして、この銅造地蔵菩薩半跏像は、伝承によれば、その中の地蔵院護摩堂の本尊だったとされています。
つまり、
白山本宮 → 白山寺 → 地蔵院護摩堂 → 地蔵菩薩
という、白山信仰における神仏習合の歴史を直接伝える仏像なのです。
3.なぜ松任にあるのか?
ここが非常に興味深いところです。
明治維新になると、政府によって神仏分離政策が進められました。
白山本宮でもそれまでの神仏習合が解体され、白山寺にあった仏堂などは失われました。
その際、この地蔵菩薩像も白山寺から移されたとされています。
現在は東三番町町内会が所有しています。
したがって、この像は、
白山寺が失われた後も、地域の人々によって守り伝えられてきた「白山寺の仏像」
という性格を持っています。
これは、以前ご質問のあった白山寺の建物が明治期の神仏分離によって失われた問題とも直接つながっています。
4.「半跏像」とは?
「半跏」とは、両足を完全に組むのではなく、片方の足を下に垂らした坐り方です。
この像では、地蔵菩薩が台座に腰掛け、
片足を台座から下へ踏み下ろす「半跏踏下坐」
という姿勢をとっています。
これは通常の坐像とは少し違う、非常に特徴的な姿です。
地蔵菩薩は、死者や子どもを救う仏として知られていますが、こうしたすぐに立ち上がって衆生を救いに行くような姿勢として見ることもできます。
5.像の姿
細部を見ると、かなり洗練された仏像です。
文化財調査では、
- 白毫がある
- 首に三道が表現されている
- 耳朶が環状になっている
- 袈裟をまとっている
- 左手に宝珠を持つ
- 右手は特徴的な指の形をとる
- 半跏踏下坐をとる
という特徴が確認されています。
特に注目したいのが顔の表情です。
石川県の文化財解説では、
「表情はやさしく穏やか」
と評価されています。
地蔵菩薩らしい、非常に柔和な表情を持った像です。
6.「蝋型別鋳組合せ」という高度な鋳造技法
この像は木彫ではありません。
銅を鋳造して作った仏像です。
しかも、
「蝋型別鋳組合せ」
という技法が使われています。
頭体部、両肩、両手、膝部、足先などを別々に鋳造し、それらを組み合わせて一体の像にしています。
文化財資料では、全体を8つの部分に分けて鋳造したとされています。
この技法によって、銅像でありながら非常に繊細な衣文や人体表現を実現しています。
7.もともとは金色だった?
現在の像を見ると、銅の色が主体になっています。
ところが、もともとは鍍金(ときん)、つまり表面に金を施した金銅仏だったと考えられています。
長い年月の間に鍍金がほとんど剥落してしまったため、現在では銅の地肌が見えています。
したがって、制作当初は現在とはかなり違った、黄金色に輝く仏像だった可能性があります。
8.実は台座にも重要な歴史がある
さらに面白いのが台座です。
像そのものは1342年の制作ですが、台座には後世の修理・補鋳の痕跡があります。
台座の銘文によって、
天和2年(1682年)
に、加賀藩の鋳物師である
平井但馬守家長
が台座部分を補鋳したことが分かっています。
つまり、この地蔵菩薩は、
1342年 → 1682年 → 明治時代 → 現在
と、約680年以上にわたって大切にされてきたわけです。
9.なぜ文化財として重要なのか
この仏像には大きく3つの価値があります。
① 南北朝時代の仏像として
制作年が康永元年(1342)と明確に分かっているため、南北朝時代の銅造仏を研究するうえで重要な「基準作」となります。
② 鋳造仏として
蝋型別鋳組合せによる高度な技術が使われており、鎌倉時代以来の優れた仏像制作技術を受け継いでいます。
③ 白山信仰の歴史資料として
これが非常に重要です。
この像は単なる「1342年の地蔵」ではなく、
白山本宮 → 白山寺 → 地蔵院護摩堂
という、かつての白山神社と仏教寺院が一体となっていた時代を具体的に証明する遺品なのです。
さらに明治の神仏分離によって白山寺から移されたという伝来を持つため、白山における神仏分離の歴史そのものを物語る文化財でもあります。
10.白山信仰の歴史から見ると非常に面白い仏像です
これまでお尋ねになった白山比咩神社の歴史と関連づけると、この地蔵菩薩像の意味がさらに分かりやすくなります。
かつての白山本宮では、
白山の神々
↓
白山三所権現
↓
本地仏
↓
白山寺・地蔵院・本地堂などという神仏習合の世界が形成されていました。
ところが明治維新によって、
神社と寺院を分離
↓
白山寺の堂宇が失われる
↓
仏像が境内から移される
↓
地域の人々が仏像を守るという大きな変化が起こりました。
この地蔵菩薩像は、その変化を実物として現在まで伝えているわけです。
まとめ
この像を一言で表すなら、
「白山寺の記憶を今に伝える、南北朝時代の地蔵菩薩」
と言えるでしょう。
1342年という制作年代、精巧な銅造技法、1682年の台座修復、そして白山寺から東三番町への移座という歴史が重なっています。
特に、**白山比咩神社にかつて存在した白山寺の姿を知るうえでは、非常に貴重な「生き証人」**です。白山市も文化財として、この像を「白山における神仏分離の歴史を伝える遺例」と評価しています。
なお、現在の所在地は白山市東三番町21-5で、白山市の文化財一覧では見学可能な文化財として掲載されています。
守郷白山神社とこちらの地蔵堂、この二つは旧松任地区に存在し、神仏習合時代の白山宮の痕跡を今に伝えているようです。
廃仏毀釈ではあのタリバンによる仏教遺跡破壊を遥かに上回る仏像、寺院の破壊が行われたと言われています。
しかしながら、白山信仰の御信者さん方は白山下山仏社などが有名ですが、それ以外にもさまざまな形で仏様を民衆の手によって守り抜いてきた歴史があるようです。
ことに白山市におきましては、そういう事例が多く存在します。















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