明治時代の神仏分離で解体された白山寺本地堂
本地堂は白光苑の付近に存在した

WikiPediaによれば、
白山本宮の社殿堂塔復興は、安土桃山時代に正親町天皇から白山宮復興の綸旨を受けた前田利家により、避難先の三宮の地で再建が始まり文禄5年(1596年)に竣工した。
再建後の江戸時代は加賀藩主が神社の経営をみ、加賀一ノ宮・白山本宮である当社の神社社殿、そして社頭境内北側には神宮寺として白山寺 本地堂(現在の北参道境内・白光苑周辺)が建立された。この時代、白山比咩神社は小松の天満宮と共に前田家にとって特別な存在であり白山寺は江戸時代中頃に社の経営をみる加賀藩前田家が珠姫の菩提寺高野山 天徳院の大檀那である縁で真言宗に転じたと伝わる。
白山比咩神社 – Wikipedia
とあります。
境内地の北側に白山寺本地堂が建立されていたようですね。
明治時代の神仏分離令の際に本寺堂は取り壊されたのですが、その建物が実は現在でも実在しています。
それが守郷白山神社です。
守郷白山神社(もりごうはくさんじんじゃ)
ChatGPTによる解説
例によって、チャピー先生に守郷白山神社について解説してもらいましょう。
白山比咩神社にあった**真言宗の白山寺の「本地堂(ほんじどう)」**は、明治2年(1869)の神仏分離によって取り払われましたが、現在も建物が残っています。
移転先は「守郷白山神社」
守郷白山神社 移築された場所は、現在の**白山市木津町にある守郷白山神社(もりごうはくさんじんじゃ)**です。
守郷白山神社
白山市の公式資料によれば、明治2年(1869)、守郷白山神社側が白山比咩神社の前身である「白山宮」から本地堂(白山護摩堂)を買い取り、社殿として転用しました。現在の守郷白山神社の拝殿が、その本地堂にあたります。
つまり、
白山比咩神社(旧白山宮)
↓
白山寺 本地堂(白山護摩堂)
↓ 明治2年・神仏分離
解体・移築
↓
守郷白山神社の拝殿という流れです。
なぜ「本地堂」が重要なのか
現在の守郷神社拝殿 本地堂は、神仏習合時代の白山信仰を考えるうえで非常に重要な建物です。
白山寺では、白山権現を仏教的に理解する「本地垂迹」の考え方があり、白山の神々と仏・菩薩が一体となって信仰されていました。
ところが明治2年の神仏分離によって白山寺は廃止され、本地堂も白山比咩神社から撤去されました。現在の白山比咩神社には、当時の本地堂そのものは残っていません。
ところが木津町の守郷白山神社では、建物だけでなく「白山本地堂」と書かれた扁額まで一緒に移されています。
扁額「白山本地堂」|白山市公式ホームページ白山市公式ホームページこの扁額は宝永5年(1708)に寄進されたもので、現在は白山市指定文化財です。
さらに興味深い点
白山寺の遺構は本地堂だけではありません。
2024年に行われた石川郷土史学会の調査では、明治元年以前の白山比咩神社周辺には、
- 本地堂
- 釣鐘堂
- 長吏屋敷など
が存在していたことが、藩政期の境内図などから確認されています。
そして白山寺ゆかりの仏像や仏具も、神仏分離の際に各地へ移されています。例えば白山寺本地堂にあった十一面観音坐像は、現在、金沢市の高野山真言宗・波着寺に伝わっています。
ですから、白山比咩神社の「昔の白山寺を実際の建物で見たい」という場合には、木津町の守郷白山神社が最も重要な場所の一つです。
以前ご質問のあった白山比咩神社の北参道・白光苑周辺も、実はこの白山寺の旧境内を考えるうえで非常に面白い場所です。現在の境内図と江戸時代の境内図を照合すると、**「本地堂は現在のどの辺りに建っていたのか」**までかなり具体的に推定できます。

江戸時代には「神社だけ」ではなかった
ここが非常に重要です。
江戸時代の白山比咩神社は、現在のような神社単独の境内ではなく、神社と仏教施設が一体となった神仏習合の宗教空間でした。
白山寺の本地堂(白山護摩堂)もその一つです。
しかも、現在の本殿は明和年間(1768~1770)に建てられたものですが、石川県の文化財資料には、
本殿と本地堂が同時期に造営された
ことを示す史料があるとされています。さらに、本殿に棟札を掛けることができなかったため、本社と本地堂共通の「白山本社本地堂御造営棟札」が本地堂に掛けられたと考えられています。
これはかなり重要な証拠です。
つまり、現在の本殿が建てられた18世紀後半には、
本殿(神)+本地堂(仏)
という構成が実際に存在していたわけです。

本地堂は現在の境内のどこにあったのか?
ここは注意が必要です。
現在公開されている白山比咩神社の境内図には、当然ながら「本地堂」「釣鐘堂」「白山寺」などはありません。現在は神社として再編されているためです。
したがって、現在の地図だけから「ここが本地堂跡」と断定することはできません。
ただし、江戸時代の絵図・造営関係資料を使うと、旧境内の建物配置をかなり復元できます。
特に重要なのが、
本殿 → 本地堂
という位置関係です。
本地堂は本殿と無関係な離れた寺院ではなく、白山本宮の神仏習合を構成する主要建築の一つでした。

明治2年、決定的な変化が起きます
明治元年から神仏分離が進められ、白山比咩神社でも仏教施設が整理されました。
白山比咩神社自身の沿革にも、
- 明治元年(1868) 諸神社の別当・社僧に還俗を命じる
- 明治4年(1871) 国幣小社となる
と記録されています。
そして明治2年(1869)、白山宮の本地堂(白山護摩堂)が売却されます。
買い取ったのが、
木津町の守郷白山神社
です。

現在も「本地堂そのもの」が残っている
これは非常に面白いところです。
守郷白山神社の現在の拝殿が、旧白山比咩神社の本地堂(白山護摩堂)を転用したものです。
つまり、
江戸時代の白山比咩神社
↓ 明治2年
本地堂を売却
↓
木津町へ移築・転用
↓
現在の守郷白山神社拝殿
ということになります。
しかも建物だけではありません。
一緒に、
- 「白山本地堂」扁額
- 神鏡
- 神号額
- 鳥頭蓋付朱漆塗瓶子一対
なども移されています。

「白山本地堂」の扁額が決定的な証拠
守郷白山神社に現存する**「白山本地堂」扁額**は、白山市指定有形文化財です。
宝永5年(1708)に白山宮の本地堂へ奉納されたものです。
つまり、
1708年
↓
白山比咩神社の本地堂に掲げられる
↓
1768~1770年頃の本地堂造営
↓
1869年、神仏分離
↓
守郷白山神社へ建物・扁額などが移る
↓
現在まで保存という非常に明瞭な歴史をたどれます。
扁額はなんと横幅約2.73mもあります。

現在の本殿と本地堂の関係は?
現在の本殿が1770年の建築として残っている一方、その時期に本地堂も同時に造営されていた
ということです。
したがって、現在の境内を歩くときには、
「この本殿の周囲には、約250年前には本地堂をはじめとする神仏習合時代の施設が存在していた」
と考えるのが正確です。

現地で見るなら「守郷白山神社」がものすごく重要
白山比咩神社だけを見ていると、
「白山寺は明治時代に消滅してしまった」
ように感じます。
ところが実際には、
白山比咩神社
1770年
現在の本殿造営
↓
本地堂も同時期に造営1869年
神仏分離
↓
本地堂撤去守郷白山神社
1869年
本地堂を購入
↓
社殿として使用
↓
現在も拝殿として残るという「建物の移動」が確認できます。
これは、白山信仰の神仏習合から神仏分離への変化を建物そのもので追跡できる非常に珍しい例です。
以上がChatGPTによる解説です。
ところどころ端折っていますので、文脈が不自然なところがあるのはご了承ください。

横から見た守郷白山神社です。
本寺堂は拝殿の部分で、後で後方に本殿を建て増しした形になっているのではないかと想像されますね。
守郷神社境内地に存在するものたち
鳥居

ここからは守郷白山神社(もりごうはくさんじゃんじゃ)の現在の様子をご紹介してゆきます。

石造の鳥居には守郷白山神社の扁額が掲げられています。
常夜灯

鳥居の脇には常夜灯が配置されています。
手水舎

手水社の龍神様は青銅製でした。

水は止まっていました。
舟形の石?

船の形をした石。
これは何??
日と月の灯籠


神馬の像

境内内には神馬の像が祀られています。
狛犬

拝殿の手前には一対の狛犬が配置されています。

阿形は右手、獅子に見えますね。

吽形はツノがあり典型的な狛犬の形をしています。
手足が太くて筋骨隆々のツオそうな姿をしています。
御神木

御神木は欅の木のように見えます。
神社脇の建物は木津地区の集会所になっているようです。
石川県神社庁より
守郷白山神社 もりごうはくさんじゃんじゃ
御祭神 菊理媛命
鎮座地 白山市木津町100
氏子区域 白山市木津町
由緒
守郷の社と称し、天暦10年鎮座と伝う。
弘安正応の頃、若干の神田を有し神田神社岡本越前守が兼帯した。
後、安養寺別当神勤す。
明治2年白山長吏より白山本地堂(神鏡・扁額共)を本社に移築した。
現幣拝殿がこれである。
同44年1月境内菅原社を合祀した。
「白山本地堂」扁額は松任市文化財に指定。 守郷白山神社守郷の社と称し、天暦10年鎮座と伝う。弘安正応の頃、若干の神田を有し神田神社岡本越前守が兼帯した。後、安養寺別当神勤す。明治2年白山長吏より白山本地堂(神鏡・扁額共)を本社に移築した。現幣拝殿がこれで






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